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眼前には美
施餓鬼供養と永代供養の手続きをする。大小の新しい4枚の卒塔婆に、係の僧侶が戒名や俗名などをすらすらと墨書していく。冥加料などを精算して、卒塔婆とお骨をもって本堂に上がる。順番が来て、読経をあげる僧侶の前で祭壇にむかって焼香をする。そのあと鴬張りの廊下を通って納骨堂まで案内され、お骨を納めてお参りをすると一連の儀式は終わる。
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納骨堂には現在、7体の大きな仏像が安置されている。
納骨されたお骨から造られたお骨佛と言われるものだ。遺骨を粉末状にして布のりを加え、仏師の手によって仏像に造形される。10年毎に1体の仏像が造立されることになっている。古くから行われてきた、このお寺独特の供養法である。niclose的博客
昭和20年の大阪大空襲で、それまでの仏像は堂塔伽藍もろともに消失されたので、昭和23年に造られたものが今ある最も古いものになる。Winter Vacation
お寺の栞によると創建は文治元年(1185年)、京都の知恩院で新しい念仏の布教をしていた法然上人による開基とされる。
招かれて近くの四天王寺を参拝の折、法然上人は西門のさらに先の地で美しい夕陽が沈んでいくのを目にされた。仏法のお勤めをするには理想的な環境と感じて、その場所に小さな草庵を造られた。その場所と草庵こそ、この寺の始まりとされている。その当時は、眼前には美しい入日の海が広がっていたのだろう。
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寺域の案内図を見ると、戊辰戦争で新政府軍と戦った会津藩士の墓地や、鳥羽伏見の役の東軍戦死者の墓や篠山十四勇士の墓、大正8年と9年の流行性感冒死者の墓などと、歴史が忍ばれる墓もたくさんある。
さらには、400年前の慶長十九年(1614年)の大坂冬の陣では、この辺りの茶臼山一帯が徳川家康の本陣となり、豊臣方の真田幸村と激しい戦いがあった場所で、数千もの無名戦士の死体が境内を埋めつくしていたという。この惨状を悲しんだ当時の住職が、死者の霊を慰めるために塚をつくり、その上に本堂を建てて供養したという。まさに数々の戦乱の歴史の上に建てられたお寺とも言える。
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